市民・行政・協働

環境先進都市を目指して

2011年がスタートした。

1997年春、突然の報道によって、町田市のごみの最終処分場の3メートル嵩あげと町田リサイクル文化センター(焼却工場)からの都内ワースト2のダイオキシンが排出されている事実を知った。「なんとかしなければ・・・」と住民の取り組みが始まって14年目になる。

昨年11月には、「ごみになるものを作らない・燃やさない・埋め立てない」を原則として、徹底したごみの減量、資源化を図りつつ持続可能で環境負荷の少ない都市を目指す」ということを基本理念にした『町田市一般廃棄物資源化基本計画の中間答申』が出された。(町田市廃棄物減量等推進審議会・会長細見正明氏)


一方、町田市のごみの最終処分場についても閉鎖に向けた取り組みが開始され、現在進行している。住民と行政と専門家が、現況調査し、観測できる地点を決め、データを観測しつつ、管理し、時間をかけて最終処分場にある有害物質をうすめて自然界に戻していくための、町田市廃棄物最終処分場閉鎖等検討委員会を経て、現在は『町田市廃棄物最終処分場周辺環境保全協議会』という。(専門家として梶山正三氏、関口鉄夫氏、町田市環境部、周辺町内会、環境住民団体で構成、会長は地域住民の小川由一氏、)


最終処分場に立つと、今は亡き小山田の古老たちの苦渋に満ちた言葉が思い出される。

「大きな住宅団地になると思って土地を売った。リサイクルセンターの所は中学校になる場所だった。ごみの施設になるのだったら手放さなかった」「小山田がどうしたら良くなるのか、そのことだけを考えてきた。ごみの施設も受け入れてきたが、住民を騙すようなやり方はだめだ。不正義は憎むよな」「小山田は運が悪かった…そう思って生きてきた。今ある施設を他所に持っていってくれというのではない、これ以上の施設はいらないということだ」が耳に残る。

リサイクルセンターが出来、地域の雇用は生まれたが、最終処分場や焼却場の情報や問題点が明らかになる中で、安全性を求める新しい住民と、古くからの住民の思いが一致し、何とかしなければと運動の輪は広がっていった。特に、小山田の古老たちの決意は固く、最終処分場や、焼却場の問題解決の展望もないままの、更なる廃プラスチック中間処理施設の小山田への建設計画は(1999年2月から2004年11月)中断する。

2006年、新しい市長のもと、中断していた廃プラスチック中間処理施設建設計画は白紙に戻り、「ごみになるものを作らない・燃やさない・埋め立てない」を目指したごみ減量の取り組みが始まるとともに、最終処分場についても、行政、専門家、市民協働の対策がとられるようになり、今日に至っている。

   

全国各地で、今もごみに関する紛争(市民は被害者で加害者は自治体や事業者)が起きている。目前の火の粉は振り払わなくてはならないが、本当にごみ問題を解決するためには、ごみそのものを減らす以外に道はない。

ごみを処理するためにはお金がかかる(市民の税金)。お金だけでなく、市民がどれだけ手間隙かけられるか、そのコスト意識もまた考えなければ、解決にはほど遠い。町田市はこれからが正念場。「理想論」だとか「大きな目標ができただけ」とか「ごみなんて減らすことなんかできない、それよりももっと現実的に、高性能の焼却炉を作ってほしい」という人も少なからずいる。
理想を実現するには市民の意識の変革と行動が鍵となる。「私」自身が変わらなければ実現しない。


*町田市のごみの最終処分場と町田リサイクル文化センター(焼却工場)は町田市の北部小山田地域にある



・2005年10月のごみ有料化目前に市民が持ち込み出だした不燃ごみの山。2005年8月末からどんどん持ち込まれ最終処分場に仮置きされた。総量1600トン。2006年1月まで、焼却炉をフル稼働させて焼却した。


・2007年2月「最終処分場』に初めて調査が入る


・2010秋 覆土工事の準備が進む最終処分場


・2011冬 覆土工事の準備が進む最終処分場