私が選んだ記事

「新聞離れ」「活字離れ」が話題になっていますが、納得できる記事、参考にしたい記事、人に読ませたい記事などを切り抜き、保管しておく読者も少なくありません。短い記事ですが、折々の世相を反映するものでもあります。市民の「目」として掲載して行きたいと思います。



町田ゼルビアが天声人語の話題になるなんて!

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町田ゼルビアが天声人語の話題になるなんて!

東京とは何だろう。地元とはなにか。
「我が街にはサッカーの町田ゼルビアがある。」

嬉しい記事です!

草の根






村上春樹さん反戦のラジオ

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村上春樹さん反戦のラジオ

ロシアによるウクライナ進攻に関して、作家村上春樹さんがディスクジョッキーを務めるラジオ番組の放送についての記事が、3月20日の朝日新聞に掲載された。


憲法9条さえ守っていれば平和は守られると信じている人は私の周りにも多い。
しかし今回のロシアのウクライナへの進攻は、強引であり、そこには憲法も、国民の意思も通用しない。
そうならない為には議会制民主主義を再認識させるべきではないのだろうか。
議論を重ね、結論を出して進んでいくことのできる議会に成長しなければ、安心安全は守れない。それは地方議会も国会も同じだ。


新聞記者も、知識人もまた、身近な地方議会が正しく機能しているかもっと関心をもって欲しい。国政が上で、地方議会は票集めの下請けという構図を見直さない限り、ある日突然世の中が意図しない方向に進んで行ってしまうことになりかねない。



F・T




「違う意見も認めることが大切」

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「違う意見も認めることが大切」

平和を願う思いには変わりはない筈だけれど、「戦争をしたい人たち」、「現実を知らない人たち」に区分され、対立してしまう。 対立が、ただアピールするだけのものなら効果があるのかもしれないけれど、本当に「平和」を願うなら、何をもって平和と言えるのか議論をし、 道筋をつける努力と理解を深めるべきではないのだろうか。


体制に対して、「反対」・「賛成」を前面に出すことは、市民運動として当前とされてきたけれど、賢明な方法だったのだろうか。 主張を貫きたいがために短絡的に政治を利用し利用され、議論を深める機会をつくることなく、同じ主義主張の仲間内だけで満足して終る。 こんな運動をこれまで何回繰り返してきたのだろうか。


我こそが「平和の権化」であり、他の考えに聞く耳を持たない、持ってしまったら平和は守れないかのような独りよがりな運動は、 多くの市民に受け入れられるのか疑問だ。急がば回れと言う言葉がある。 本当に平和を願い、広めたいのなら、もっと多角的な運動や、日々の活動を展開することも必要ではないのかと思う。
先入観に捉われず、広い視野を持って議論を尽くすことの必要性を説いた「若者の声」に、これからの日本を託したい。



F・T




「頭から離れない理玖君のこと」

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「頭から離れない理玖君のこと」

 「こころ」が有るのと、無いのとではこうも違うものかと思い知らされた記事だった。 理玖君のことは本当にいまも忘れられない。 多くの心ある人が同じ思いを持っているにも関わらず、保護者による子供の育児放棄・虐待が後を絶たない。
識者は、保護者の生い立ちにも問題があるのではと言うけれど、個人の資質に逃げてしまっては、 親を選ぶことの出来ない子供はどうなるのだろうか。 保護者によるネグレクトは、保護者自身の生い立ち・経済事情・人間関係によるストレス等など原因は様々かもしれないが、 生まれてくる子供に責任はない。 保護者やその周辺が、子育ては無理ではないかと気づいたら、一時的にでも預けられる場所があることを、 もっと積極的に周知することが必要ではないのだろうか。

 2004年12月に「児童福祉法」が改正され、市町村が虐待通報の窓口となり、地方公共団体に「要保護児童対策地域協議会」の設置が規定された。 町田市に於いても、地域に子ども家庭支援センターが設置され、それなりの実績は上がっていると思う。 しかし、救いの手からこぼれてしまった子供の命を守るための具体的な仕組み・人材の育成は進んでいるとは思えない。

 身近に2歳の子供がいる。 生後2歳にして、周囲の人間・身近な動物・小さな虫などに対する気遣い・優しさ・寂しさ・何事にも関心を示す豊かな感性には驚かされる。 まして5歳ともなれば・・・と思うと、あまりにも悲しく辛い。

 幼い子供が自ら救いを求めることは出来ない。ネグレクトの保護者が自ら通報することもあり得ない。 救済する仕組みがあっても、座って待っているだけでは手遅れになる。 様々なケースを想定し、シミュレーションをし、命を守る為の行動を積極的にとって欲しい。
投稿者の切なる願いを一日も早く実現し、縁あってこの世に生を受けた子供の命を、 どの様な形であれ大切に守り育てていく社会を、行政・地域一体となって作って行かなければと思う。


F・T




第1回トライアル発注認定商品・『はじめての傘』!

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傘デビューにママの優しさ

「あっ愉しそうな傘だな!」
「えっ町田の主婦!」
思わずにこにこしながら読んだ記事。
そしてこんな制度があったんだとびっくり!!

優れた新商品を開発しても、受注実績のないために、 販路開拓が進まない市内の中小企業者を支援することにより、 市内ものづくり産業の活性化を図ることを目的として、2013年「町田市トライアル度発認定制度」が創設。
昨年12月、第1回トライアル発注認定商品が決定され、その中の一つが『はじめての傘』だという。
ポッポ町田にいってみたら、『はじめての傘』も飾ってあり、手に取ってみることができた。
担当課である経済観光部 産業観光課に聞いてみると、2014年度はすでに6月4日に認定申込みは終了し、 応募件数は6件だったとか…。
それにしても『はじめての傘』、若いお母さんの起業という点でもなんだかうれしくなる!

(朝日・2014・6・3)

M・K




「さりげなく教育」できる教師・親の育成も・・・

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「さりげなく教育」できる教師・親の育成も・・・

体罰の是非・道徳教育の導入の是非等など、教育の現場が問われている。大層に考えなくても、教師や周囲の大人が身につけていれば自然にスッと出る言葉、子供にはそんなさりげない言葉が心に染み通るのではないのだろうか。課題は、折に触れ、こういう言葉を日常的にさりげなく、自信を持って発する事が出来る教師・親の育成をどうすれば良いのかということかもしれない。


PTAに関わっていた頃、小学校の近くに居を構えた年長の友人が、「驚きましたね、今の先生は生徒に“並んで下さい”“教室に入って下さい”って言うのですか?これで指導が出来るのかしらね」と言われ、返答に窮したことがあった。又別の先輩には、「ジャージにつっかけ姿で、規律を守れと指導できるのかしらね」と言われたこともあった。

今も昔も、社会の常識として身につけておいて欲しいことは、物を大切にする・人に迷惑をかけない・規律を守る等などである筈である。教える側が自信を持って教えられる状況を作ることも問われている様な気がする。

教師・親が、自身の人生・家族の幸せを考えた時、教え子たちがどの様に育ち、どのような社会を形成してくれれば良いと思っているのか、その為にはどの様な教育をするべきか、自問自答することも必要なのかもしれない。長い目で見れば、校則・規則・法律などで解決出来ることはごく一部に過ぎないのではないのだろうか。

F・T




町田市議会 改革調査で 全国9位・・・?

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町田市議会 改革調査で 全国9位・・・?

タウンニュースの記事を読んで、少々違和感を覚えた。議会傍聴を続けている市民の感覚から、あまりにもかい離しているように思われたからである。


調査票に書き込むだけの申告式の調査かもしれないが、傍聴席から議員が見えない議場、議員が居るのか居ないのか、何をしているのかさえも分からない議場が、改革調査で全国9位とは驚きである。


すでに、市民から「議員が見えない議場はおかしい」と疑問・批判が寄せられているにも関わらず、改革調査に反映されなかったとしたら、改革自体が形骸化しているということでもある。

今、社会が求めるものは、改革をすることによって、議会運営がどう変わったのか、効率性・内容・結果も含めて、議員の議会に対する姿勢がどういう風に変わっていったのかというソフト面である。外観以上に、内面の重要性が問われている事を、回答した議会・調査した早稲田大学マニフェスト研究所も知って欲しい。

町田市議会は、「全国1371議会中9位」であると、得々として公表して満足して終りであったとしたら、改革調査自体の姿勢が問われるのではないのだろうか。

市民は、政党のお先棒を担ぐのではなく、思いつきの質疑ではなく、町田市・町田市民のための議会運営をしてもらう為に、税金を払っていると思っている。議会が、議会と議員の為のものだとしたら、市民はますます離れて行く。

F・T




町田市 いじめに独自対策・・・

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町田市 いじめに独自対策・・・

少子化による人口減や、生産年齢の高齢化などにより、国の行く末を心配する声は大きい。そんな中、いじめ等による若者の自殺、虐待による幼児の死の報道には、悲しく、残念で、勿体なく、日々やるせない思いをさせられている。事が起きるたびに、学校関係者は命の尊さを伝えたい・教えたいというけれど、若者の自殺は後を絶たない。


いじめる側・いじめられる側・指導する側に、それぞれの理由があって、悲惨な結果に至ったのだと思うけれど、周囲が、回避する為の知恵を出す努力を怠ったことに違いはない。今、その努力が始まっている。


町田市では、「いじめ対応サポートチーム」を設置し、独自の対策をまとめたと言う。詳細は分からないけれど、その意気込み・対応の速さは評価したい。いじめの芽を見つけることから、生徒・親への対応まで、受け持ちの教師が担うことは大変なことである。まして、人命に関わる問題に発展するする可能性もあると思えば、真剣に取り組めば取り組む程、そのプレッシャーは大きい筈である。若い教師・親世代の育った環境の変化は激しい。とりわけ情報の速さ・多さは、時には誤った認識を植え付け、うまく行くことも行かなくなるというジレンマを抱えることになる。傍から見ていても大変だろうなと思う。


「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げていた政党があった。お金をばらまくのではなく、1クラスの人数を20名位にして、子供に目が届く様な環境を作るべきではなかったのかと思う。少子化で子供の数も減り、産業の空洞化で、若者の就業の場も減りつつある。少数学級にし、やさしさ・がまん強さ・辛抱強さを身につけた子供を育てることは、日本人の資質の向上にもつながる。教員の増員は、若者の雇用の促進にも繋がるのではないだろうか。いじめ問題をきっかけに、対処療法に終わることなく、教育行政そのものを見つめ直して欲しいと思う。

F・T




競争は必要 学力以外も評価を

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競争は必要 学力以外も評価を

東日本大震災・原発事故に対して、女優の岸恵子さんが「悲惨な出来事だったけれど、これを機に日本人を作り直すチャンスとすることが出来るなら、希望が持てるのではないのか・・・今回の出来事はそれほど大変なこと・・」とあるテレビ番組で話していた。戦前、戦後の激動の日本を、感性豊かに生きて来られた岸恵子さんならではの言葉と受け止めた。

この度の震災と、それに伴う原発事故の日本人の対応から、これまで行ってきた教育、人作りの片鱗がうかがえる様な気がした。とりわけ、プレスの前面に立たった東電・経済産業省・保安院・安全委・等のエリート集団の姿は不可解だった。非常事態が起き、情報を得ようとテレビ画面に釘付けの国民の胸中を余所に、まったく別世界に身を置いているかのような表情・態度には違和感を口にする人は多かった。

ヨウ素を手元に置きながら指示待ちをしていた自治体職員・指示を出さなかった国・県、情報開示を条件に原発の稼働をしてきた筈の、電力会社や国による今回の非開示、復興は願うけれど、がれきは持ち込むな、松は燃やすなと主張する市民エゴなど・・・上げればきりがない。

そろそろ数字では測れない目に見えない教育、哲学・活力・責任感・精神力・思いやり・優しさ等を重視した教育への転換が必要ではないだろうか。 乙武氏の記事は、本音と建前がゴチャ混ぜの、生徒ひとり一人の活力の育成に無関心な教育現場の現状を言い当てている様な気がする。

教育問題を話し合った後に語られる言葉はきまって「それを誰が教えるの?教える人がいないから仕方がない」である。いつまでも仕方がないと言っていても仕方がない。国も、この度の災難を「日本再生のチャンスとする」と言うからには、ぬるま湯から出て、教育を根本から見直す覚悟が必要ではないだろうか。凛とした岸恵子さん・若い乙武氏の柔軟な姿勢に学ぶところは大きい。

F・T




議員報酬今こそ見直し論議を(2011年6月28日朝日新聞より)

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議員報酬今こそ見直し論議を

甘えの構図の中にどっぷりと使っている点では、どこも同じなのだなあとつくづく思う。自分たちは安全な場所にいて、「行財政改革断行」「議員定数削減」「納税者主権の政治で議員定数の削減や報酬の削減」「議員特権をなくす」(草の根ニュース№4から№10までをじっくり見てください!)とかなんとか、選挙の時にだけ口にする。私たち市民がその後を追いかけない限り、『口だけ公約(膏薬)が剥がれている現実』は明らかにならない。

長崎県対馬市の市民団体は市議会議員の議員報酬を月額制から日当制に変更し期末手当は廃止するという条例改正を求めている。

かたや町田市では、「町田市政を考える会・草の根」の調査で、三多摩二十六市中ダントツ高い市議会議員の期末手当の実態が明らかになった。何故そうなったのか?バブル期に市職員の期末手当に合わせて大きく膨らんでいた議員の期末手当5.2ヶ月。バブル崩壊後、議員と同じ町田市の特別職である市長・副市長は勿論のこと、職員までもが、3.95ヶ月に下げている一方、議員は下げてこなかった。ただそれだけのこと!

世の中は、そんなに甘いものではない。昨年12月議会で、三多摩のほとんどの市議会は、期末手当を3.95ヶ月に下げている。町田市議会の議員特権そのものがボーナス5.2ヶ月の実態だ。この事を知った市民はどう思うだろうか。

K・M




不毛な対立、70年代から

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不毛な対立、70年代から

魚肉ソーセージを見て、第五福竜丸を連想する世代からみると、核兵器の恐怖は理解していたものの、3・11以前、原子力発電に対する恐怖は、原発を受け入れている地域の人たちに比べれば、漠然としたものだった。にもかかわらず、反戦・反核・反原発運動は常にセットであり、左翼・革新という人達の専売特許のようになってしまっていたことは否めない。この三つの「反」に共感を持つ人達は、頭のどこかで、その人達に任せておけば、理想的な社会に導いてくれるのではないかという期待を抱き、ひたすらその文字を掲げている政党・政治家を支持してきた人も多いと思う。

本来、エネルギー問題は、社会的な問題であり、自然エネルギー・再生可能エネルギーは多くの国民の理想であり、当然否定する理由はない。一部の政治家・学者・文化人・市民が、何故かそれを自身の思想・価値観の証の様に思ってしまったことが、逆に国民の関心をイデオロギーに向かわせ、二者択一的な流れを作り、自由に語り、集会に参加することに躊躇する様な状況を作ってしまった気がする。

原発・エネルギー問題は、国民ひとり一人の問題であるにもかかわらず、一部地域に押し付け、賛成・反対の議論を戦わす機会も作らず、右・左の対立の対象として、極論の狭間で都合よく利用されて来てしまったことが、今日の政治の貧しさや、無関心な国民を生み、このような不幸を招く一因になってしまったのではないだろうか。

スリーマイル島原発事故から32年、チェルノブイリ原発事故から25年、反原発・脱原発を唱え続けてきた人たちは、地震国である日本に、54基もの原発を作り続けてきた現実を前に、後世に対して、取り返しのつかない事をしてしまったという自責の念を、抱く人は多いと思う。

確かに、高度経済成長をまっしぐらに突き進んでいた70年代に、ローマクラブが、「成長の限界」で、このまま成長が続くことへの人類の危機に警鐘を鳴らし、多くの国々で反響があった。1972年、ローマクラブがメンバーとして招請した中に、皮肉にも関電・東電会長の名前もあったが、当時の科学の発展と経済の拡大の勢いは、良くも悪くもこの警鐘に耳を貸すこともなく、今日の事態を迎えることになってしまった。

この現実を踏まえ、エネルギー問題を政争の具にしてきた政治家・利用してきた企業・労働組合・官僚・長年の理想を実現しようとする文化人・交付金に依存してきた自治体・恩恵を受けてきたマスメディア・研究者・沈黙してきた国民は、脱原発・原発推進に、賛成・反対という選択ではなく、過去・現在・未来を見据えた議論を重ね、次世代の子供達に胸を張れるような結論を見出して欲しいと思う。

放射能はイヤだ・怖い・だから脱原発だ・自然エネルギーだ、と、仮にその道を選んだとしても、54基もの原発が一瞬で消えてなくなるわけではない。政治・行政・企業をなじり、不満をぶつけても、もう以前の生活に戻ることは出来ない。生涯放射能のリスクと付き合っていかなければならないという覚悟を決めなければ、議論の先が見えてこない。

一瞬にして、美しい山河・肥よくな土地・手塩にかけた田畑・人の絆を失った福島の人達のぶつけどころのない怒りや、不条理を共有し、英知を集めて議論することが求められているのではないだろうか。熱しやすく冷めやすいと言われている国民性を持った日本人である。幾度となく考えるチャンスが有ったにもかかわらず、政治や環境・エネルギー問題・危機管理にも関心を持つこと無く、時の流れに身を任せて今日のライフスタイルを享受してきた国民一人ひとりが、自身の生き方を見直さなければ、不毛の対立に再び利用されかねない。

F・T




いまこそドラッカーに学べ

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いまこそドラッカーに学べ

おぼろげに記憶している「焼け野原」が、再現されたかのような被災地の光景を見ていると、この先この地はどの様に再生されていくのだろうかと思いを馳せる。これは第二、いや第三の「敗戦」などという人もいるけれど、豊富な情報や物資に囲まれ、安易で便利な生活を知ってしまった市民のストレスは敗戦時の比ではない筈である。地震や津波に対する認識・自治体や住民の危機管理意識・エネルギー政策・利便性を追求してきたライフスタイル・遅々として進まない政治主導の救済策等に対して、「見直し」「反省」「不満」の声も大きい。国民の多くは、行け行けドンドンの従来の復興・成長に突き進むことに迷いが生じて来ているのではないだろうか。

統治能力がない・頼りないと、政治家への不満や不信感が日々高まっている。でも選んだのは市民であることは紛れもない事実である。選出された政治家は、「あなた達がやれと言ったからやっているのでしょ」と言いたいのが本音かもしれない。

「何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つ者は、真摯さを欠いている」は、政治家だけでなく、市民の関心の矛先も言い当てている。市民が判断を余儀なくされる時、思想・信条・政党・利害・好き嫌い・付き合い等に関心が行き、何が正しいかは二の次で、真摯さとは程遠い。ひとり一人のこのあいまいな判断が、社会の諸々の混乱の要因となっているものの、平時に目を見開き、真摯に「正」に向き合い、行動することはそう簡単なことではない。

今被災者は何を必要としているのか、何が不満なのか、それを解消する為にはどういう仕組みを作るのか、東日本大震災の救援に当たっている若い行政マン・医療従事者・ボランティアは、今、まさに真摯に被災地・被災者に向きあっている。正しい答えを見つけようにも答えがない状況の中で、正しい問いをみつけようとしているのかもしれない。

すでに、様々な理想・理念を挙げて復興利権が津波の様に押し寄せている。何の前触れもなく、一瞬にして数万の命と、幾世代にもわたって築いてきた有形無形の財産が失われたこの震災を無駄にしないためにも、誰が正しいかでなく、何が正しいかを判断の基準として、真摯に向き合い、将来を見据えた悔いのない町づくりに取り組むことを願っている。

F・T




孤族の国の福祉

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「個人支える制度と社会に」・・・でもその前に

年の初めから、孤族・無縁社会・格差社会、超個人主義社会・・・等の文字が紙面を躍っていた。今日本が抱えている一番切実な問題であり、まだほんの入り口に過ぎないだろうと思えるところが気を重くする。親は子供を育て、その子供は親の老後の面倒を看るというごく当たり前に繰り返されてきた「絆」が、プツプツと切れ始めている。子供を育てられない親、離婚(=「解散」という世代が出現している)の増加、経済のグローバル化、科学技術の進歩による雇用の喪失、単身者の増加、少子化、超高齢化社会、医療、福祉の高負担等その原因を上げると枚挙にいとまがない。

日本は、これまでとは状況が変わったのだから、福祉も制度を見直さなければという発想は理解できる、が制度の整備によって解決出来ることは、外面的な部分に留まる。福祉を受けるひとり一人が、これで良かったと納得できるかどうかは、全く別問題ではないのだろうか。

「教育と福祉の連携」の記事「人の可能性を引き出すという教育の原義と、積極的かつ予防的な福祉とは重なる」は、高齢者福祉は事後的なもの、老後の人生にリセットする為のものという捉え方でなく、生涯現役社会人としての人生を貫く為のサポートという考え方は共感出来る。某メディアが、税、年金をテーマに街頭で市民に意見を求めた時の、「私達は、もう年金を貰うだけだから」という60歳代女性の発言には考えさせられたが、これは多くの高齢者の認識かもしれない。経済的な状況はその通りかもしれないが、社会、地域を形成している一人としての自覚、誇りは持ち続けるべきではないだろうか。人生90年時代の到来と言われている今日、この先社会情勢がどのように変化するかも分からない。転ばぬ先の杖の為にも、現役社会人としての意識は持ち続けて、学び、活動して欲しいと思う。その上での福祉制度でなければ、年金を支えている若い世代はたまったものではない。

F・T




もしも、こんな先生だったなら・・・ < 投稿から >

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「もしも、こんな先生だったなら・・・ < 投稿から >

「人は、人間性+知性の両方があって初めて飛行できる。どちらが欠けても、片肺飛行だから、いつかは墜落する。人とはそういうものであることを、頭に入れて努力することが大切」「親という字は、木の上に立って見ると書く。子供の勉強は、子供の仕事、親の仕事は、子供が迷った時、アドバイスや指導が出来るような見識を身につけておくこと」・・・ひと昔前の学校のPTAでは、良くこの様な内容の講演会を催した。親にとって、耳の痛い、厳しい内容の勉強会が多かったように記憶している。講師に、「でも、この頃の子供は・・・」などとうっかり言おうものなら、すかさず「子供は、社会を映す鏡です。良くも悪くも子供に学びなさい」と返ってきたものだった。

近頃の痛ましい子供や、教師のうつ病や自殺の増加に、取り巻く社会がすでに片肺飛行をしているのではないかと思ってしまう。片肺の「人間性」が欠落していると言っても、定義も形も無いものを学んだり、教えることは確かに難しい。教える側が身につけていなければ、教えようもないものである。新聞に投稿された二つの記事に、微かではあるけれど、二人の教師の人間性の有無を垣間見た様な思いがした。勿論、子供の背後にいる親にも投げかけられた投稿でもある。

F・T




市民が自治を鍛えて行く

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「市民が自治を鍛えて行く?」

自分の目で見て、耳で聞いて、極論に振れない市民に・・・

今、地方自治体が熱い。いずれも個性的な首長と議会が主役である。パフォーマンスではないか、独断的過ぎると言われつつも、自らの信念を貫くことに専念しているように見える。その信念が正しいのか、それを市民はどう思っているのか、議論の余地はある。何故なら、一票を投じて選んだのは市民であり、こういう状況を作り出した責任はある。

もし市民が、選挙で選んだ首長、議員が市民の為に期待通りに働いてくれているのだろうかと議場に足を運んでいたとしたなら、状況はどのようになっていたのだろうか。興味本位に取り上げるメディアの報道に対して、この状況を作り出した当事者である市民に、よく知らずに、深く考えずに選んでしまったという思いはあるのだろうか。

今後も、支持政党だから・頼まれたから・何となく・良いと思ったから・有名だから・若いから等を選ぶ根拠として選び、投票を済ませた後は「お任せ」の従来の認識のままであったとしたなら、いくら選挙で首長・議員を変えようとも、議員の数、歳費を下げようとも自治は鍛えられない。市民が議会に無関心で、チェックをしようとしなければ、市民にとっても、当然市民である首長、議員にとっても不幸なことではないのだろうか。

F・T




くらしを考える

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「豊かさとは何でしょう?」

久々に「暉峻淑子さん」の名前が目に止まった。ずっと言い続けて下さっているんだなあ、と思ったものの、現実は真逆に走って来てしまっている。

社会が豊かにならないと、自分自身の生活も豊かにならないことは誰でも分かっている。今を生きる国民の多くは、近頃の議員さんの資質を見て、選挙に行って投票するだけの社会参加だけでは、とても社会を豊かにすることは出来ないだろう、という不安を持ち始めていることは確かである。

金銭面の豊かさを求める行動は分かりやすいが、真の豊かさの為に行動しようすると、まさに、「不介入の美徳」なるものが頭を持ち上げてくる。

勇気、お金、暇があればと言う問題ではなく、社会を良くしたいという思いが希薄になっているのではないか、泣いている子供を見てこれは普通じゃないと思える感性、何とかしようという行動力が欠落してしまっているのではないだろうか、この記事を読んで思わず我が身を振り返った。先ず、この一歩から始めよう・・・

F・T




NPO法人を考える

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新しい公共?

一口でNPO法人と言うけれど、実際には市民系、任意団体、個人、県、市町村、社会福祉法人、企業、公益法人、国、大学等様々なNPO法人が存在することを知った。その数4万、殆どが行政からの委託事業に頼って活動していることは、やはり新しい公共事業と言える。受託形態にも請負、委託,助成、補助があるはず、何れも税金である以上、活動の実態、財務内容の公開もして欲しいと思うけれど、実態はどうなのだろうか。その前に、規約、契約はどうなっているのか関心をもっていきたい。

F・T